遠江国掛川城地震之節損所之覚図
静岡県掛川市掛川1138-24
安政東海地震
嘉永7年11月4日<安政元年>(1854年12月23日)午前9時15分頃発生
震源域は遠州灘東部で、規模はマグニチュード8.4。伊豆半島から熊野灘沿岸、山梨・長野・滋賀・福井・石川県まで広い範囲で家屋が倒壊。地震に伴って大津波が発生し、伊豆から伊勢志摩、熊野灘にかけては甚大な被害をもたらした。波高は静岡県沼津で3~4m、三保で6m、鳥羽市国崎で20m、尾鷲では6~10m。震度は静岡県沼津で6、焼津は7、津・鳥羽は6とされ、余震は7ヶ月続いた。被害状況は、圧死・焼死・流死者約1,000人、家屋倒壊及び流失約8,300戸、焼失約600戸。なお、伊豆の下田ではロシアの軍艦ディアナ号が碇泊中だったが、津波で大破して27日に沈没した。この地震後、11月27日に安政と改元され、嘉永7年=安政元年とされた。
出典:「愛知県災害史 名古屋気象台監修(昭和45年 愛知県発行)」「明応地震・天正地震・宝永地震・安政地震の震害と震度分布(昭和54年3月 愛知県防災会議地震部会)」「愛知県被害津波史(昭和56年3月)愛知防災会議地震部会)」「日本被害地震総覧416-2001」
掛川宿内丸焼けのうち19軒だけ残る。横須賀御城内大手櫓・御門塀破損。民家1,118軒潰、1,557軒半潰、死者100余人。土蔵155焼失157、民家焼失742軒。
出典:「明応地震・天正地震・宝永地震・安政地震の震害と震度分布(昭和54年3月 愛知県防災会議地震部会)」
安政東海地震によって各所が壊れた掛川城が、欠損箇所の覚書として残した図
掛川城は慶長9年(1605)の慶長地震で倒壊し元和7年(1621)に再建されたが、安政東海地震により再び甚大な被害を受けた。
「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」は安政東海地震の時の城郭の被害の状況を、八ヶ月後の安政二年七月、幕府に報告するために作成された絵図の控。絵図には、天守の三階部分が潰れ。天守下石垣折れ廻り一箇所崩落。門、多門等多くの城櫓(やぐら)が崩壊などの列記とともに、当面の修理方針や手当の状況が書かれている。
この絵図は地震の被害だけでなく、当時の掛川城の縄張り(城を防御するための、本丸、二の丸などの配置)を知る上でもきわめて資料価値の高いものといわれている。
また、掛川城ならびに、掛川城下の地震の様子を伝えるものとしては、広楽寺の住職が残した過去帳がある。過去帳に記された掛川城下、掛川宿の様子は以下のようなものであった。
嘉永7年11月4日の掛川宿は朝から晴れた穏やかな日であった。この日の5ツ半(午前9時頃)突然地震が発生。宿内は激しい揺れと地割れ、そして次々に家屋が倒壊した。逃げ遅れた人々は倒れた家の桁や梁に押さえられたり、崩れ落ちる壁土に埋められたりした。倒壊した家屋からの脱出も、自分だけで精一杯で、年寄りや妻子を助けられるような状態ではなかった。ちなみに、この日の掛川の震度は6とされている。
やがて宿内の各所から火災が発生し、たちまち延焼した。家の中に家族がいることがわかっていても、家に近づくこともできず、哀れむべき事態となった。
この後、助かった人々は掛川宿周辺の安全な地帯に避難したが、途中に地割れした亀裂から泥水の噴出を目にしたり、城下の小河川はすべて濁水に変わり、井戸水も飲むことが出来ない状態であったという。また、掛川藩では実情視察の役人を派遣し、粥(かゆ)の炊き出しなども行ったと記されている。
出典:「静岡県史 別編2 自然災害誌(平成8年3月 静岡県)」「愛知県被害津波史(昭和56年3月)愛知県防災会議地震部会」」「遠江国掛川城地震之節損所之覚図・解説(平成元年3月)掛川市教育委員会」
掛川御殿は江戸時代後期に再建された建物で、全国で数カ所にしか残っていない大変に貴重なもの。国の重要文化財に指定されている。
「夜泣き石」伝説が残る中山峠は、急峻な坂の続く街道の難所であった。
日坂宿の旅籠屋で、江戸時代の面影を遺す数少ない建物のひとつ。江戸から招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作されたといわれる。
山野に自生する葛の繊維を織り上げた布。掛川では、鎌倉時代から製法を受け継ぎ、江戸時代には東海道掛川宿の繁栄と共に栄え、裃や合羽などに使用され大変に珍重された。
城下町・掛川宿の伝統を色濃く残す「掛川祭」は、毎年10月上旬に掛川駅北側の市街地を中心に行われる。